トルコとの友好

義の将・上杉謙信



小泉首相トルコ訪問 現地メディア 破格の扱いに


 【イスタンブール=高木桂一】小泉純一郎首相がトルコを訪問し、両国関係の強化を打ち出したことについて、トルコのメディアは十日から十一日にかけて一斉にトップ級で報じた。


 小泉、エルドアン両首相の会談を受けた十一日の主要新聞は「お祭り騒ぎ」(ホテル従業員)といったところだ。


「中東における連帯」(テュルキイ紙)、


「中東和平のためのトルコ・日本の協力関係」(イェニ・シャファック紙)、


「トルコ・日本間の協力関係」(ラディカル紙)、


鳥インフルエンザへの共同対策」(ヴァタン紙)


−などの見出しで大々的かつ肯定的に伝えた。


 一方、テレビも十日の両首脳の共同記者会見を四局が生中継し、ニュース専門局「NTV」などは約五十分に及んだ会見を、時間を延長して最初から最後まで完全放送した。


 外交筋は「他の主要国首脳の訪問の際には見られない破格の扱い」と驚きを隠せない様子だ。


産経新聞http://www.sankei.co.jp/news/060112/evening/13int003.htm





何故トルコと?そう思われる方も多いだろう。


我が国とトルコとの間にはあまり知られていない、


意外な接点があるのである。


古くは、明治の時代から−。




事件の経過(wikipediaより)


1864年建造の木造フリゲートエルトゥールル号(全長76m)は、1887年の日本の皇族小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応える目的で、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。


1889年7月、イスタンブルを出港、数々の困難に遭いながらも、航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で熱烈な歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて翌1890年6月にようやく日本に到着した。


横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けたが、出港以来積もり積もった艦の老朽や物資・資金不足は限界に達していた。


横浜で多くの乗員がコレラに見舞われたエルトゥールル号は9月になってようやく出港の目処をつけ、遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側による台風の時期をやり過ごすようにとの勧めを振り切って帰路についた。


このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリムイスラム教徒)にイスラム教の盟主オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化ぶりが喧伝されてしまうことを恐れたのだと言われる。


遭難事件はその帰途に起こった。


1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、和歌山県樫野崎灯台沖に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して爆発、沈没した。


灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に事件を知らせ、灯台守の通報により大島村(当時)の村民が総出で救助と生存者の介抱に当たった。


この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、島民は非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。


この結果、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明となる大惨事ながら、69名が救出され生還することができた。


やがて事件は和歌山県を通じて日本政府に伝わり、心を痛めた明治天皇は政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。


こうして医師と看護婦が和歌山県に派遣され、さらに生存者は日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により無事トルコへと送り届けられた。


エルトゥールル号の遭難は大きな衝撃を呼んだが、オスマン帝国専制君主アブデュルハミトのもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。


また、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられたことは、トルコの人々の日本と日本人に対する好印象を決定づけるに充分であった。




当時の人々は、当然の事をした、


としか思ってはいないかもしれない。


しかし、このことが、後の日本人を救う事になるのである。




日土友好の起点(wikipediaより)


トルコ人は欧州または中東の中でも特に親日的であると言われるが、エルトゥールル号遭難事件において示された日本人の友誼への感謝がその起点にある。


公的な場でトルコ人が日本人に対して日土友好の歴史について語るとき、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事件の顛末である。


イラン・イラク戦争中の1985年に、イラク軍がイランの首都テヘラン空爆を開始し、さらにイラン領空上を飛行する航空機を無差別に撃墜すると宣言したとき、トルコ政府はテヘラントルコ航空機を派遣し、在イランの日本人を救出したが、このときトルコ政府がこの件に対する尽力の理由としてあげたのが「エルトゥールル号のお返し」という説明だった。


これに対してエルトゥールル号以来の日土友好の歴史は日本ではあまり知られておらず、公的な場で語られることすらもまれである。


先述の在イラン日本人救出の際も、トルコ側の説明とは対照的に、エルトゥールル号事件に触れて日土友好の歴史を言及したコメントは、政府・マスコミを含めてほとんどまったくあらわれなかった。


しかし21世紀に入ってからは、エルトゥールル号事件の顛末がインターネット上の電子掲示板やメールマガジンで紹介される機会が増え、一部のテレビ番組や雑誌でも取り上げられるなど、日本の一般の人々の間に徐々に広まっている。


2004年には、これらのことを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書ともなった




誠の心を持ってトルコの人々を助けた日本人。


その恩を彼らは忘れなかった。


「情けは人の為ならず」


まさにその実例であろう。


中共がほざくような、


「おみまいもうしあげる」とは似ても似つかぬ、


誠と誠の外交である。


思い返してみれば、ここ最近、


これほど心の温まる話があったろうか−。



感傷に浸っている余裕はないので次にいくことにする−。



この事を踏まえ、対特ア外交をどう見据えて行けば良いのか。


「アジア」外交は−。


思うに、特アを除けば親日国はかなりある。


トルコを含めた中東、東南アジア、そしてインド。


これらの国々と親密な関係を醸成していけば、


出来る事ならインドと同盟関係を構築できれば、


そして中共領内のチベット東トルキスタンなどの少数民族にも、


「義」の心を以て手を差し伸べれば、


対中ブロックを構築する事が出来る−。


今日とあるシンポジウムに参加した。


そこで帝京大志方俊之教授が、


武士道外交というものを提唱された。



「義を重んじ、誠に生きる」


「弱き助け、強きを挫く」


「去りし後には一輪の華が咲く」




こんな外交をするなら、他の国々は自ずと付いてくる。


イラクの地に燦然と日の丸をはためかせる、


我らが陸上自衛隊がその体現者である、と。


今後のイラクにも期待したい。


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エルトゥールル号詳細