日本人の危機意識
今日は少し軽めに。
皆さんは、危機や危険といったことに関して、
どういった認識を持っているだろうか。
災害に巻き込まれたら。犯罪に巻き込まれたら。
私が見た、一つの例を紹介してみたいと思う。
ある日、私は学校に行くために電車に乗っていた。
といっても、昼間の時間帯で乗客は疎らであった。
すると、途中の駅でキャリーケースを持った、
女子大生くらいの人間が乗り込んできた。
彼女は私と通路を挟んだ席に座り、
カバンを通路に置いたのだが、
席に座るなり荷物に何らの注意を払う事も無く、
ケータイを取り出し、必死にメール。
当然、荷物は何らかの手段を講じて保持しなければ、
発車と同時に「G」が掛かり、どちらかの方向に動き出す。
何と彼女は、
アサッテの方向に荷物が転がっていくのにも気付かず、
必死にメール。
今考えれば非常に意地が悪いと自分でも思うのだが、
私はそのまま彼女の行動を観察していた。
「次の駅で人が乗車して来れば、
自然に視線がそちらに向き、気付くだろう」
敢えて何も行動を起こさなかった理由として、
そのように考えていたのもあった。
しかし、
私 が 甘 か っ た
次々乗り込んでくる乗客に見向きもせず、
必死にメール。
「…」
私は言葉を失った。
彼氏だかなんだかとメールしているのだろうが、
ケータイの画面しか見ていない。
人間の視野というものは、まあまあ広いはずだが、
そうでもないらしい。
それどころか、自分が今まさに生活をしている社会の空間を、
一顧だにしないのだ。
結局心ある人が、
席の後ろにカバンを置いてくれていたのでよかったが、
私の降りたターミナル駅で人が大量に乗り込んで来るまで、
彼女はそれに気付くことが無かった。
ホームから車内で慌てふためく彼女の姿を見止めた時、
私は失笑を禁じ得なかった。
このような例は、皆さんも見かけた事は無いだろうか。
自分の身の周りで何が起こっているのかということすら、
把握できていないのである。
街でケータイの画面を見ながら歩いたり、
果ては自転車に乗りながらメールをする者までいる。
もし私が犯罪者であったら、何の苦労も無く金品を奪えるな、
と彼ら・彼女らを見ていて思うことがある。
「そんなんべつにだいじょうぶやしぃ〜」
そんな声が聞こえてきそうだが、
果たしてそうだろうか。
無法者がひったくりを敢行してきた時、
運転を誤った車が突っ込んできた時、
子供が無茶な運転をする自転車が飛び出してきた時、
周りを見ずに対処できるだろうか。
神経をいくら尖らせていても、それらは防ぎきれない。
それなのに、自分を更に不利な状況に追い込んで、
一体どうするつもりなのか。
犯罪者は、そういう人間を狙う。
辺りを注意深く見回しているような人間を誰が狙うだろうか。
自ら犯罪の標的になるような行動は、
思いがけぬ災厄を自分自身に降りかけさせることになる。
この事について、もう一つ全く逆の経験もした。
数年前、昼間の帰りに閑散とした電車に乗っていると、
斜め前にアメリカ人らしきビジネスマンが、
同じくキャリーケースを通路に置いて座っていた。
ぱっと目が合ったのだが、彼は私の姿を見た瞬間、
ごろつき、やくざ者に見えたのだろうか、
カバンの取っ手を強く握り締めた。
個人的には非常に心外な事ではあるが、
バイトの新人にも最初廊下で鉢合わせた時に、
不審者だと思われ、悲鳴を上げられた。
まあ、彼女は危機管理がなっているのだろうか。
そう思えなくも無い。
私は敢えてコメントせず、
聡明なる読者諸兄にその判断を任せたい。
話が逸れてしまったが、
不審な人間を見止めた瞬間に警戒をする、
外国人の危機意識と日本人のそれでは、
それ程までに認識が違うということである。
優秀な警察力と、
女子大生の話で出てきた名も無き乗客の例からわかるように、
最早美徳とも呼べる規範意識を持った国民性によって、
日本人の殆どは、犯罪の恐怖に曝されずに済んできた。
しかし、国際化は進む一方であり、それを止めるべきでもない。
それにつれて、我々日本人とは、
全く異なった意識を持った人間がどんどん入ってくる。
今のまま、ナアナアの意識で、
「そんなんないしぃ〜」と言っていれば、
今に身包み剥がされることになるだろう。
「歩く時ケータイを弄るのを止める」
最初はそんなことでもいい。
注意力を持って生活することを、考えてみてはどうだろうか。